イエスの手当
2009年 07月 06日
年間第14月曜日
第6回百日連続共同祈願ミサ 74/100日
読み慣れている、聞き慣れている、知っているつもりの聖書の物語も
日を置いて改めて触れると新たな発見があります。
今日の福音書はイエスが指導者の娘を生き返らせ、イエスの服に触れる女をいやされた話、
マタイによる福音書9・18-26から。
同様の話はマルコによる福音書5・21-43とルカによる福音書8・40-56にも収録されています。
マルコとルカは共通点が多く、詳細にわたっているけれど、
マタイはそれを要約したコンパクト版のような印象を受けます。
今日初めて気がつきました。
マルコとルカ版では父親の会堂長ヤイロが「娘が死にそうです」と言ってイエスに助けを求め、
家に向かう途中で死んでいるのに対し、
マタイ版では、父親の指導者(名前なし)がイエスに会いに行ったとき、娘はもう死んでいます。
父親は初めからイエスに死者の復活を期待しているのです。
しかも、重い皮膚病を患っている人にすら、律法上汚れることを恐れずに手を置いていやされる
イエスのやり方をおそらく知っていた父親は、大胆にも、
死んだ娘に手を置いてやってください、と頼んでいます(民数記19・12、14、16参照)。
そうすれば生き返る、と固く信じて。
そして、進もうとされるイエスの後ろに
12年も病気で出血が続いている女が近づいて来て、
自分が人を律法上汚れさせる存在であることも顧みず(レビ記15・25参照)、
イエスの服の房に触れます。
(房については民数記15・38、申命記22・12参照。)
そうすれば治してもらえる、と固く信じて。
彼女はイエスから
「あなたの信仰があなたを救った」と言われ、病はいやされます。
死んでいた少女も(マタイでは年齢不詳、マルコとルカでは12歳)
イエスが手を取ると息を吹き返します。
どんなに汚れていても受け入れてくださると信じる私たちの手と
私たちがどんなに汚れていても愛して御自分の血で清めてくださるイエスの手とが
結ばれる時、奇跡は起こります。
死者が生き返らず、病気がいやされなくても、
内側では何かが変わっています。
清めは起こっているのです。
第6回百日連続共同祈願ミサ 74/100日
読み慣れている、聞き慣れている、知っているつもりの聖書の物語も
日を置いて改めて触れると新たな発見があります。
今日の福音書はイエスが指導者の娘を生き返らせ、イエスの服に触れる女をいやされた話、
マタイによる福音書9・18-26から。
同様の話はマルコによる福音書5・21-43とルカによる福音書8・40-56にも収録されています。
マルコとルカは共通点が多く、詳細にわたっているけれど、
マタイはそれを要約したコンパクト版のような印象を受けます。
今日初めて気がつきました。
マルコとルカ版では父親の会堂長ヤイロが「娘が死にそうです」と言ってイエスに助けを求め、
家に向かう途中で死んでいるのに対し、
マタイ版では、父親の指導者(名前なし)がイエスに会いに行ったとき、娘はもう死んでいます。
父親は初めからイエスに死者の復活を期待しているのです。
しかも、重い皮膚病を患っている人にすら、律法上汚れることを恐れずに手を置いていやされる
イエスのやり方をおそらく知っていた父親は、大胆にも、
死んだ娘に手を置いてやってください、と頼んでいます(民数記19・12、14、16参照)。
そうすれば生き返る、と固く信じて。
そして、進もうとされるイエスの後ろに
12年も病気で出血が続いている女が近づいて来て、
自分が人を律法上汚れさせる存在であることも顧みず(レビ記15・25参照)、
イエスの服の房に触れます。
(房については民数記15・38、申命記22・12参照。)
そうすれば治してもらえる、と固く信じて。
彼女はイエスから
「あなたの信仰があなたを救った」と言われ、病はいやされます。
死んでいた少女も(マタイでは年齢不詳、マルコとルカでは12歳)
イエスが手を取ると息を吹き返します。
どんなに汚れていても受け入れてくださると信じる私たちの手と
私たちがどんなに汚れていても愛して御自分の血で清めてくださるイエスの手とが
結ばれる時、奇跡は起こります。
死者が生き返らず、病気がいやされなくても、
内側では何かが変わっています。
清めは起こっているのです。
by lumenchristi
| 2009-07-06 23:08
| 今日のみことば